第五章
次の日、昨日の自分の気持ちも冷め。握り飯を食べているのか気がかりで、普段より早めに探偵事務所に向かった。だが、一人になれば思考しなくなり鏡に代わる。そうなれば自由に体を動かす事は出来ないが、体の機能維持の本能だけなら体を動かすことが出来る。だが、その事は知らないのだ。扉の前に立つ沙耶加は、顔色が青ざめているのは急いで着た為ではないだろう。
(お願い食べていて)
そう思いながら扉を叩いた。
「おはようございます」
挨拶をしながら部屋に入った。何時ものように返事は無い。それでも、今日は椅子に座っていた。そして、机に視線を向けると、おにぎりは無く、空になった皿が目に入った。
(食べてくれたのね。よかった)
そう思い。暫くすると何時もの挨拶をしてくれた。
「海さん、今日は何が飲みたいですか」
「コーヒーが飲みたいです」
「はい、ミントの紅茶ですね。分かっています」
「コーヒーです」
「えっええ。コーヒーですか、はい、少し待っていて下さいね」
驚くのは無理がなかった。前の海なら気分によって飲み物を変えていただろうが、今のような状態になってからは、ミントの紅茶しか頼まなかったからだ。驚きはしたが、普段と違う行動や言葉は前に戻る前兆と思い嬉しかった。だが、今頼んだのは鏡だ。海が治る前兆か分からないが、原因は昨日の沙耶加の言動だろう。沙耶加がおにぎりだけを置いて帰ってしまったから悲しかったに違いない。確かな感情は無いだろうが、心の隅に少しずつ人間らしい感情が積み重なっていたのだろう。それが砕けたのかもしれない。
「お待たせコーヒーですよ。どうぞ」
「遺言状」
沙耶加の言葉を聞くごとに鏡から海へと意識が移りだし、海に変わった。
「ありがとう。それだけで意味は伝わりますよ。私は行動計画書を作成しますからゆっくり飲んでね。お代わりが欲しい時はお代わり。そう言って下さいね」
「ありがとう。頂きます」
室内は無言になり。海が飲み物を飲むにしたがい、鏡に意識が移りだした。ただのコーヒーだが、心がこもっているのが感じたのだろう。海は安心したように感じられた。
「て〜ん、天、出て来てくれ、何処に居る?」
意識が鏡に変わったが、先ほどのように声を出す事は出来なかった。恐らく、沙耶加がいるから、そして、普段のように優しくしてくれるから以前の気持ちに戻ったのだろう。
「にゃあ〜」
(居るよ。何かな、鏡お兄ちゃん)
本棚の隅にある段ボールの中から鳴き声を上げながら出て来た。恐らく、寝ていたのだろう。その鳴き声が聞こえると、沙耶加は手を止め席から立ち上がった
「ああ猫ちゃん、ごめんね。ご飯忘れていたわ。直ぐあげるわよ」
沙耶加は、天猫が美味しそうに食べるのを確認すると、又、机に座り作成を始めた。
「にゃ、にゃあ」
部屋の中は猫の声だけが響き、鏡と天猫だけが分かる話をしていた。
「あのなあ。天」
「鏡お兄ちゃん、言いたい事は分かるよ。あの猫を捜せばいいのでしょう」
「それも、そうなのだが、天、寝ている時間が多いのは気のせいなのか、身体が悪いって事は無いのか、チョット心配でなぁ。大丈夫なのか?」
「鏡お兄ちゃん。猫は寝るのが仕事って聞いたこと無いの」
「そうかあ。だが、無理だけはするなよ」
「大丈夫だって、ちょっと近所のボス猫にでも聞いてくるよ」
そう言うと、天猫は逃げるように窓から外に出て行った。すると室内は無言となった。勿論、鏡も相手が居無いからだろう。無言で沙耶加の様子を見つめていた。
「公園でも行ってみるか、恐らく、公園ならボス猫がいるだろう」
堂々と自分が一番強い。そう思わせるかのように尻尾を垂直に上げる。この姿を見れば猫なら興奮か怒りを感じるはず。でも、この時間の飲み屋街では猫も人も居ない。そのまま堂々と歩き続け予定の公園に着いた。すると何かを探すように辺りを見回し、そして、大きく息を吸い。そのままの大きく開いた口で叫び声を上げた。その泣き声はまるで発情期の猫の鳴き声によく似ていた。暫くすると「シャー」と威嚇の声を上げながら猫が現れた。野良とは思えない丸々に太った灰色の猫だ。だが、汚れてなければ真っ白い猫に違いない。この猫は可愛いメス猫が来たと思ったのだろう。出て来たが、オス猫と気づき餌場を荒らす猫が来たと感じたはずだ。
「お前は、この近辺のボスか、なら話がある」
「うるさい。黙れ」
そう叫ぶと、天猫に襲い掛かった。だが、天猫の右の平手打ちで十メートルは飛ばされただろう。そして、直ぐに起き上がり人間なら土下座と思う様子を示した。
「貴方は天猫様でないでしょうか、主人が次元の底に落ちたが、戻ると信じて待ち続けた。伝説の最強の猫ですね」
「え、確かに天猫だが、それ程、俺は有名なのか」
「有名なんて言葉では足りません。猫の守護神とも神の使いとも言われています」
「そうなのか」
「そうです。それで、話があるようですが何でしょうか」
このボス猫は、いや全ての猫と言ったほうがいいだろう。負けると伝説の名前を言うのが普通だった。相手に敬意を払うと言うか、完全に負けを認める言葉として使われていた。
「ああそうだ。メス猫を捜している。名前はシロ、親から命名された名前は知らない」
「それだけですか」
「飼い主の名前は、斉藤 恵利子と言う。恐らく、飼い主が嫌いで逃げたのだろう。だが、帰ってきて欲しい。まあ、直ぐに逃げてもかまわないがなぁ」
「ううん、見つかれば説得はします。それと、もう少し、猫族としての特徴は無いですか」
「そうだな。猫族の古い種族分けは知っているか?」
「ああ分かります。動物の名前で十ニ種族に分類していたのですよね」
「そうだ。写真で見た感じでは、ネ族と、トラ族の混血と思えた」
「ネ族とは珍しいですね。それなら、二匹ですが心当たりがあります」
「おお、会わせてもらえないか、それはメスか」
「一匹は私です、もう一匹はメスです。夕方には寝床を探す為に現れるはずです」
「夕方か、俺は一度帰らないと行けない。必ず戻って来る。引き止めておいてくれないか」
「はい、わかりました。天猫様、お待ちしています」
「済まない」
本当に済まないと感じているのだろう。深々と頭を下げると、また、堂々と力を誇示するかのように探偵事務所に向かった。そして、同じように窓から戻ると、沙耶加は食事の用意をしていた。天猫は時間が思っていたよりも過ぎていたからだろう。驚きなのか、それとも謝っているか一声だけ鳴いた。
「猫ちゃん、お帰り。今ご飯上げるから待っていてね」
ニャと鳴き声を上げた。
「良い子ね。返事が出来るのね。直ぐだから待っていてね」
天猫は返事を返したのでは無かった。鏡を呼んだのだ。
「天、何かあったのか?」
「探している猫に会えるかもしれないよ」
「おお早いな。もう探し出したのか」
「夕方になれば公園に来ると言われたから探しに行かなくてもいいよ」
「そうかあ、だが、伝える事は出来ないからな」
「仕方ないか付き合うよ。どうせ海のリハビリの為に猫を捜すのでしょう」
「済まない」
「気にしないでいいよ。あの二人では探し出す事は出来ない。俺が何とかしないとなぁ」
天猫が鳴き止まないからだろう。料理の手を休め、先に天猫に食事を渡した。
「お腹が空いているの。仕方が無いわね。先にあげるからね」
天猫は又、鳴き声を上げていた。
「食べていいのよ。でも本当に頭がいいわね。頂きますまで言うのね」
そうではなかった。
「鏡お兄ちゃん。俺一人で夕方になったら公園に行って会ってくるよ」
「頼む。何故、逃げたか理由も聞いてきてくれ」
「いいよ。聞いてくる」
そう言うと天猫は食事を少し食べ始めた。まあ猫の体で考えれば可なりの量だろう。食べ終えると、もう要らないと言う意味だろう。ガリガリと爪を研ぐように床を引っ掻いた。
「もう要らないのね。分かったわ。ハイハイ、本当に頭がいいわね」
本当に嬉しそうに頭を撫でた。そして、天猫は満腹なのだろうか、それとも、歩き疲れたのか、ふらふらと歩き、ダンボールの中に入り寝てしまった。
「あらあら猫は寝るのが仕事だって言うわね。私も食事を済まして作成しないとね」
黙々と行動計画書を書き始め、終えたのは三時を回っていた。心底から疲れたのだろう。大きな溜め息を吐いた後は、直ぐには海に計画書を渡さずにお茶の用意を始めた。勿論、海に何が飲みたいか聞いた後だ。
「海さん、飲みながらでいいから話を聞いてね」
「遺言」
海の言葉を遮ると、又、話を続けた。
「聞いているだけでいいわよ。あのね、今から渡す計画書は三日間の行動の予定なの。それを全て記憶して欲しいわ。海さんなら出来るはず、でもね。心配なのは計画書の通りに行動するよりも、危険を感じたら自分の身の安全を優先して欲しいの」
「はい、その指示に従います」
まったく感情が感じられない返事を返した。
「飲み終わってからでいいわ。これだから読んでいてね」
海がうなずくと、机の上に書類を置いた。
「沙耶加さん、全て記憶しました」
海は声を上げた。「えっ」、と沙耶加は声を上げはしなかったが、直ぐに時計に視線を向けた。予定していた時間より早いからだろう。本当に読んだのか。そう感じて、一瞬だが疑いを感じる視線を向けたが、誤魔化す事があるはずがない。まあ、嘘でもつく感情があれば、こんな書類を作成しなくてもいい。それが分かるからだった。
「そう、読み終わったのね。なら気分転換に公園に行きましょうか」
「遺言状、第ニ巻」
大きな溜め息を吐くと、苦笑いのような笑みを浮かべ返事を返した。海が不審を感じて何かを言う。そう感じて、自分が何か変な事でも言ったのかと言葉を待った。
「第一章、意味が分からない事は悩まず。再度、聞き直すか、問い掛ける」
「え、如何したの、私が何か変な事でも言ったの?」
「気分転換の意味が分かりません。もし、私が想像している意味だとしても、公園に行く事に意味があるのでしょうか」
「あのね。部屋から出てないでしょう。だから、公園で何も考えないでお日様に当たって、森の中で美味しい空気を吸いましょう。気持ちがいいわよ。そう言う事よ」
「美味しい空気、美味しい空気?」
「ん、海さん、どうしたの」
「遺言状」
「海さん。行動計画書、第一計画を五分後に始めます」
「はい、その指示に従います」
沙耶加は怒り声を上げてしまった。先ほどと同じ事を聞かれる。そう感じたからだ。それでも、言い過ぎたと思い言葉を掛けようとしたが、自分で時間を決めた事を思い出し、急いでお茶の片づけを始めたが、海が時間になった事を知らせて来た。それは全てを流し台に入れ終わると同時だった。
「ふっ終わった。行きましょう」
「指示の通り行動を始めます」
そう答えると、海は即座に行動した。その後を沙耶加は猫を抱えながら部屋から出たが、建物の玄関を開けた時だ。海がビクビクと怯え。辺りを見回しながら不審そうに音を聞き取っていた。
「如何したの、行きましょう」
沙耶加は、海の様子が変だと感じて声を掛けた。
「このような状態では危険で歩けません」
「え、なんで」
「指示の通りに自分の安全を考えると、今すれ違った人が殴って、いや蹴りかかって来る可能性もあります。もし、刃物などで襲い掛かって来られたら避けられません」
「考えすぎよ。大丈夫だから行きましょう」
「なら動く鉄、確か車と言われているはず。あれが、私達に向かってくる可能性も」
「もう、又、幼稚園の時と同じ事を言うの」
どの様にしたら良いのかと、いろいろ考えていたら昔の事を思い出した。
(もう、あの時は幼かったから出来たのよ。今では恥ずかしくて出来ないわ。それに、男女が腕を組みながら歩くのは、女性が男性を引っ張って歩く事では無いわ。あれは、女性が楽しそうに男性の腕を組み、そして、頭を腕に付けうっとりしながら男の顔を視るの。男性に全てを任せる。そう言う風にするものよ。男性を引っ張って歩いたらお嫁に行けなくなるわ。まあ、海さん以外と結婚する気持ちは無いけど、でもね。やっぱり嫌だわ)
沙耶加は妄想で完全に我を忘れていた。顔は火照り赤くなり、目じりを垂れ下がっていた。その表情を見て、海は信じられない行動を取った。何も思考してないのに行動したからだ。何の感情か自分でも分かって無いだろう。でも、沙耶加が死んでしまう。そう真剣に思ったはずだ。突然に手を掴み、その場に座らせた。それでも沙耶加は正気に戻らない。
「沙耶加さん、確りして下さい。余りにも音がうるさくて理性をもてなくなったのだな。ああ、それと併用して排気ガスで呼吸が出来なくなったのか、大丈夫だ。私が何とかする。だから決して寝たら行けない。寝たら死んでしまう危険があるのだぞ」
沙耶加は話の途中で正気に戻ったが何が起きているのかと、想像も出来なくて何も言えないでいた。でも、頬を叩かれ、余りにも訳の分からない事を言われ、恥ずかしくなったのだろう。海の頬を殴って建物の中に引き返してしまった。
「あっ」
建物に入って直ぐに、自分を心配してくれての行動だと思い。だが、恥ずかしいのだろう。戻る事は出来なかった。その時だ。天猫が暴れて腕に噛み付き、引っ掻かれた。つい手を離してしまったが、猫が外に出るのを止めようと追いかけた。
そして、海の顔を見ると猫の事は忘れてしまった。
「ごめんなさい。私は大丈夫だから公園に行きましょう」
「はい、その指示に従います」
もう先ほどのような自我は表してくれなかった。
「如何したの、行くわよ」
沙耶加が何度も同じ事を言っても、同じ返事を返すだけで動こうとしなかった。
「ああ」
沙耶加は突然に右手を上げて指を鳴らす仕草をした。音は鳴らなかったが、何か良い考えでも浮かんだのだろう。
「海さん、見える物や聞こえる音の危険度、安全度を考え全てを記憶するのです。そして、最大の危険度を感じたら即座に自分の安全を守りなさい」
子供や犬や猫のように物や餌で気持ちを変えさせられる。微妙に違うだろうが、思考や恐怖を感じる事を記憶する事で紛らわそうと考えたのだ。だが、動こうとしない。仕方がなく海の手を引っ張った。一歩だが踏み出すと安全だと感じたのだろう。それからは行動計画書の通りに歩いてくれた。その後を天猫は尻尾を振り振りと楽しそうに歩き出した。そして、海が考えた危険などあるはずも無く無事に公園に着いた。
「海さん、着いたわね。ねえ、ここの滑り台で遊んだ事を憶えている」
沙耶加は、久しぶりに海の微笑みを見て喜んだ。
「憶えています。今までの全ての事は記憶しています」
「まあ、本当なの。そうよね。そうだと思っていたわ。だって遺言書だけ憶えているなんって変だと思っていたのよ。よかった安心したわ」
余りの嬉しさで沙耶加は声を上げたが、海の話は続いていた。
「指示の通りに全てを記憶しています。行動計画書と今までの記憶を重ねれば何の問題もなく行動が出来ます。心配でしたら一人で帰ってみせますが、勿論、貼り紙も出来ます」
「いいわよ。行動計画書の通り進めます」
沙耶加は涙を浮かべた。これでは人間ではない。そう感じたが、部屋の中にいる時より、今の表情は笑みを浮かべているようにも思えた。それを見て、
(楽しいのね。よかったわ。私以外に海の支えになる人はいないのだから頑張らないとね)
その後、尋ね猫と書かれた紙を貼りながら帰ったが、何事も無く事務所に戻った。
沙耶加は、海の事だけを考え、そして、悩んでいた為に天猫の事を完全に忘れていた。顔の表情で判断すると、まるで事務所に着き鳴き声で思い出したような感じだ。
「本当に頭の良い猫ちゃんね。抱っこが嫌だったから放したけど、大人しく後を着いて来ていたのね。驚いたわ。お腹が空いたのかな、待っていてね」
天猫は水と食事を急いで食べると窓から出かけた。探している猫が公園に来るからだ。その姿を、沙耶加は見つめていたが時間を知らせる音が聞こえると、何時もの夕飯などの用意をして帰宅した。